簡介:
小檔案
樂 隊(duì) 名 イエロー?マジック?オーケストラ (Yellow Magic Orchestra)
經(jīng)紀(jì)公司 commmons(2007年 - )
樂隊(duì)簡介
1978年,坂本龍一、細(xì)野晴臣、高橋幸宏三人組了一支樂隊(duì)Yellow Magi 更多>
小檔案
樂 隊(duì) 名 イエロー?マジック?オーケストラ (Yellow Magic Orchestra)
經(jīng)紀(jì)公司 commmons(2007年 - )
樂隊(duì)簡介
1978年,坂本龍一、細(xì)野晴臣、高橋幸宏三人組了一支樂隊(duì)Yellow Magic Orchestra,簡稱Y.M.O.
到了1980年,Yellow Magic Orchestra這支日本最早獲得國際成功的樂隊(duì)已經(jīng)紅透半邊天了。他們乘勢舉辦了世界性的巡回演出。1983年底,在武道館的現(xiàn)場演出時,他們宣布解散。一直到1993年,他們重新聚在一起。
1978年,坂本龍一、細(xì)野晴臣、高橋幸宏三人組了一支樂隊(duì)Yellow Magic Orchestra,簡稱Y.M.O. 同年他們發(fā)表第一張同名大碟《Yellow Magic Orchestra》,在日本幾乎沒什么反響。有趣的是,這張大碟1979年在美國發(fā)行后,在當(dāng)?shù)氐牡细呃锎笫軞g迎。之前的日本樂隊(duì)雖然也有做電子音樂的,但大多模仿歐美國家,并沒有什么創(chuàng)新。再加上語言方面的障礙,很難打開美國市場。但是這張大碟基本使用電腦完成,完全克服了語言上的障礙,而且完全不受既有的民謠、搖滾等形式上的限制,是真正意義上的電子音樂。 在美國一炮而紅的Yellow Magic Orchestra很快推出了第二張專輯。這一次他們是衣錦還鄉(xiāng)了,日本方面自然一哄而上,銷量相當(dāng)好。這張專輯意義當(dāng)然不止這些。它在日本開創(chuàng)了Techno這一種新的音樂形式,影響了一代音樂人。音樂不再是曲高和寡的,它可以流行,可以時尚,關(guān)鍵看你怎么做,怎么聽。
到了1980年,Yellow Magic Orchestra這支日本最早獲得國際成功的樂隊(duì)已經(jīng)紅透半邊天了。他們乘勢舉辦了世界性的巡回演出。1983年底,在武道館的現(xiàn)場演出時,他們宣布解散。一直到1993年,他們重新聚在一起。這分分合合的幾多年,樂隊(duì)的其他成員或許有些迷茫,不過作為樂隊(duì)的靈魂人物的坂本龍一可從來沒停下過。他大學(xué)里學(xué)的就是電子音樂和世界音樂。所以風(fēng)格多變是他的一大特點(diǎn)。從Techno-pop到交響樂再到電影配樂,無一不精。1987年,他為貝托魯奇執(zhí)導(dǎo)的電影《末代皇帝》所創(chuàng)作的音樂,為他贏來一項(xiàng)奧斯卡獎。難怪1999年末他推出的個人鋼琴獨(dú)奏專輯《BTTB》,如此內(nèi)斂靜默的唱片竟然成了日本幾乎人手一張的超級熱賣碟。 Yellow Magic Orchestra的音樂受法國印象派的影響很深,象德彪西、拉威爾、斯特拉文斯基等等。陽春白雪的旋律,加上美式的電子音效,不走紅才怪。很多看過現(xiàn)場的人都說他們夠酷。清一色紅色中山裝,面無表情,直挺挺地站在臺上。在那個年代,絕對夠得上現(xiàn)在e-Man的標(biāo)準(zhǔn)。不過時間已經(jīng)到了2001年,他們千年不變的造型未免顯得土氣。在日本音樂史上他們固然是重量級的存在,卻也很難再吸引更多年輕的目光。
プロファイル
バンド名 イエロー?マジック?オーケストラ (Yellow Magic Orchestra)
レーベル commmons(2007年 - )
メンバー紹介
細(xì)野晴臣(エレクトリックベース、シンセベース)
エイプリル?フール、はっぴいえんど、ティン?パン?アレーを経て、YMOを結(jié)成。YMOのリーダー?プロデューサーであり、シンセサイザーとコンピュータを用いるYMOの音楽スタイルを打ち出した。宗教や民俗學(xué)など神秘主義的な趣味があり、それらもYMOに影響を與えている。ライヴではほぼベーシストに徹し、曲によってはシンセサイザーをベース代わりに演奏していた。YMO散開後は特にアンビエント、エレクトロニカ等のジャンルを取り入れている。
高橋幸宏(ドラムス?ヴォーカル)
サディスティック?ミカ?バンド、サディスティックスを経てYMOに參加。YMOをきっかけに機(jī)械のビートと同期して初めてドラムを演奏したドラマーとなった。ファッション?デザインの技能を生かしてYMOではステージ衣裝のデザインを手掛けた。YMO散開後はソロ活動とともに、様々なミュージシャンとのコラボレーションやプロデュース業(yè)を展開している。音楽の方向性の相違などで険悪になりがちだった細(xì)野と坂本の間を取り持つ立場でもあった。サディスティック?ミカ?バンド時代、ロキシー?ミュージックの前座としてロンドンでライヴを行った事があった為、結(jié)成當(dāng)時メンバーで唯一、日本國外でのライヴを経験していた。
坂本龍一(キーボード)
スタジオミュージシャンとして活動(大滝詠一や山下達(dá)郎のアルバムに參加)した後、YMOに參加。YMOでは松武秀樹とともにレコーディングにおいて楽曲を構(gòu)築する重要な役割を果たし、またライヴでは楽曲のアレンジを一手に引き受けた。YMO散開後は映畫音楽で成功するなど、ソロ活動を展開している。幼少時よりピアノと作曲を?qū)Wび、東京蕓術(shù)大學(xué)作曲科、同大學(xué)院を修了、音楽の素養(yǎng)のベースにはクラシック音楽がある。「教授」という愛稱は大學(xué)院時代に高橋が名付けたもの。因みに、蕓大時代は漫畫の「あぶさん」に似ていた事から「あぶ」と呼ばれていた。
上記の擔(dān)當(dāng)パートについては主に演奏されるものであり、一部のレコーディングやライヴ、TV番組ではこれら以外のパートを擔(dān)當(dāng)することもあった。 坂本龍一は、ライブでドラムスを披露する事がよくあり、なかなかの腕前である。 YMOは、元々はコンセプトバンドとして構(gòu)想されたものであり、細(xì)野はメンバーの人員構(gòu)成は流動的にする考えを持っていた[1]が、ライヴなどでサポートメンバーを迎えることはあってもYMOのメンバー自體は最初から最後までこの三人であった。
バンド紹介
イエロー?マジック?オーケストラ (英: Yellow Magic Orchestra) は、日本の音楽グループ。1978年に結(jié)成。通稱、YMO(ワイ?エム?オー)。
Yellow Magic Orchestra (イエロー?マジック?オーケストラ)という名稱は、細(xì)野が1970年代後半に提唱していたコンセプトである「イエローマジック」から來ている。これは白魔術(shù)(善や白人などの象徴。特に白人音楽)でも、黒魔術(shù)(悪や黒人などの象徴。主に黒人音楽)でも、そのどちらでもない黃色人種獨(dú)自の音楽を作り上げるとして、魔術(shù)の色を人種の色にかけて提唱した「黃色魔術(shù)」(イエローマジック)である。細(xì)野がYMO以外で「イエローマジック」の名前を使用しているものとしてはティン?パン?アレーの曲「イエロー?マジック?カーニヴァル」、細(xì)野のアルバム『はらいそ』の作成者名義「ハリー細(xì)野とイエローマジックバンド」が挙げられる。また坂本のアルバム『千のナイフ』のライナーノーツの細(xì)野の寄稿文でも、イエローマジックについての記述がある。
1980年代初頭に巻き起こったテクノ / ニュー?ウェイヴのムーブメントの中心にいたグループの一つであり、シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新な音楽で、1978年に結(jié)成されてから1983年に「散開」(解散)するまでの5年間で日本を席巻した。活動期間中には米國等でのレコードリリース、及びコンサートツアーも行っている。英語圏で著名な日本人ミュージシャンでもある。1993年に一時的に「再生」(再結(jié)成)しており、また2007年にも再々結(jié)成している。
當(dāng)時、シンセサイザーを駆使した音楽としては、すでにドイツのタンジェリン?ドリームやクラフトワーク、イギリスのEL&P、日本の冨田勲などが有名であった。そんな中で現(xiàn)れたYMOの音楽は、日本において當(dāng)時の若い世代を中心に熱狂的に受け入れられた。そのため、YMO結(jié)成、そしてクラフトワークの「人間解體」発売、また同じくシンセサイザーを多用したディーヴォの「頽廃的美學(xué)論」の発売がなされた1978年を「テクノ元年」と呼ぶ者も存在する[要出典]。また英米?英語圏の音楽界に対しても少なからぬ音楽的影響力を殘しており、例えば「U?T」(アルバム『BGM』収録。)はトランス?テクノ、「RIOT IN LAGOS」(坂本龍一のソロアルバム『B-2 UNIT』収録。1980年の第2回ワールド?ツアーのオープニングで演奏された。)は、ヒップホップのそれぞれ始祖であると、後に英米で評されている。
クラシック、レゲエ等様々な音楽性を柔軟に取り入れている反面、ポストパンク的なシンプルさや攻撃性とは無縁である。このためテクノ御三家の一角としてムーブメントを支えたP-MODELの平?jīng)g進(jìn)は後年「あれはフュージョンだと思っていた」と、自分たちの音楽性とは乖離があった旨を述べている。
YMOは、そのファッションも特徴的であった。特に、初期のアルバムジャケットやライヴでメンバーが著用していた「赤い人民服」(高橋のデザインによる、明治時代のスキー服をイメージした衣裝であったが、その形狀が中華人民共和國の人民服と似ていたために、一般的に「赤い人民服」と呼ばれるようになった)、そして、すっきりとした短髪、かつもみあげの部分を剃り落とす、當(dāng)時の若者の間でも流行した「テクノカット」(本多三記夫考案)と呼ばれる髪型(特に、初期では刈りあげ+もみあげなし)の2つは、YMOのビジュアルイメージとして一般に広く認(rèn)知されている。
ライブにおいてヴォコーダーヴォイスで挨拶する事でも有名。いくつかのライブ盤でそのヴォコーダーヴォイスによる挨拶を聞く事が出來る。
蕓能経歴
【初期】 結(jié)成?ワールド?ツアー
YMO結(jié)成以前、細(xì)野は、ドラマーの林立夫、シンガーのマナと共に自身の「イエロー?マジック?カーニヴァル」をカヴァーするというユニットを構(gòu)想していた。だがこれは実現(xiàn)せず(その後マナは、ソロで「イエロー?マジック?カーニヴァル」をカヴァーしている)、続いて細(xì)野は林と佐藤博のユニットでマーティン?デニーの「ファイアークラッカー」をカヴァーすることを構(gòu)想するが、これも佐藤が渡米したことにより実現(xiàn)しなかった。細(xì)野は當(dāng)時のマネージャー(日笠雅水)にも人選を依頼し、日笠は坂本龍一を推薦した。
1978年2月19日に行われた細(xì)野のソロアルバム『はらいそ』に収録される「ファム?ファタール」のレコーディングの際に、坂本龍一、高橋幸宏の2人と、初めて3人で顔を合わせることとなった。
それまでにも坂本と細(xì)野は1975年、大滝詠一の「福生ストラット Part II」の録音時に顔合わせをしており、1976年には細(xì)野がティン?パン?アレーのツアーでサポートメンバーとして坂本を起用するという関係だった。一方、高橋と細(xì)野は學(xué)生時代から舊知の仲であったが、ミュージシャンとしての交流はサディスティック?ミカ?バンドが1975年の「ジャパン?ロック?フェスティヴァル」に出演した際、小原禮の代役で細(xì)野が演奏した事が一度あっただけだった。
その日細(xì)野が2人を自宅に招き、3人はこたつを囲んだ狀態(tài)で、おにぎりを食べながら(みかんという説もあるが、みかんはあったと三人は記憶している)會合を行った。細(xì)野が新たなグループのコンセプトを彼らに伝えたところ、2人は賛同し、ここで初めて“YMO”が結(jié)成される。このとき細(xì)野は2人に「マーティン?デニーの「ファイアー?クラッカー」をシンセサイザーを使用したエレクトリック?チャンキー?ディスコとしてアレンジし、シングルを世界で400萬枚売る」(実際のメモには枚數(shù)は書かれていない)という自身のメモが書かれたノートを見せている。
細(xì)野はメンバーが決まった後も、結(jié)成當(dāng)初は橫尾忠則をYMOのメンバーに加える構(gòu)想があった。記者會見の當(dāng)日、細(xì)野は橫尾に対し會見に來るように伝えていたが、橫尾は何故か「行きたくなかった」とキャンセルした(真相は、會見當(dāng)日が締め切りとなっていた仕事に専念するため)。黎明期YMOのトレードマークである“タキシード”も橫尾の分含め4著用意されていたが、結(jié)局、橫尾がメンバーに加わることはなかった。
後に、結(jié)成前から坂本と組んでいたシンセサイザーのエキスパート松武秀樹が、サポートメンバーのプログラマーとして迎え入れられ、YMOの特徴であるシンセサイザーの自動演奏を一手に引き受けることになる。
YMO結(jié)成後もしばらくは、メンバーは並行する形で別の音楽活動を行っていた。坂本は渡辺香津美とのツインバンド「KYLYN」、坂本のベーシスト2人、ドラマー2人など各パート2人體制により格闘技形式で演奏を行うコンセプト「カクトウギ?セッション」がそれである(これらには高橋、矢野顕子も參加)。また高橋は1979年6月までサディスティックスに在籍していた。初期には東京、新宿のジャズ?フュージョン系ライブハウス「六本木ピット?イン」などでYMO名義以外でも矢野顕子のライヴにゲスト出演を行ったり、KYLYN、カクトウギ?セッションなどに3人が參加し、YMOの曲も演奏していた。坂本の「千のナイフ発売記念ライヴ」にも3人が參加している。
1978年9月、松武秀樹をサポート?メンバーとして、YMO初となるライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) で行う。
1978年11月25日、デビュー?アルバム『イエロー?マジック?オーケストラ』をアルファレコードより発売。アルファレコードは、同年秋にアメリカのA&Mレコードと業(yè)務(wù)提攜しており、12月3日- 10日に紀(jì)伊國屋ホールで行われたライヴが來日していた副社長のトミー?リピューマの目に留まり、全米でデビューが決定したと語られてきたが、後に「ライヴ?アット?紀(jì)伊國屋ホール1978」(12月10日分収録)のライナーノーツの中で、全米デビューはそれより前に決まっていたと明かされている。
1979年5月30日、デビュー?アルバムをアメリカのマーケット向けにリミックスしたアルバム『イエロー?マジック?オーケストラ(米國盤)』をA&Mレコード傘下のトミーの自己レーベル、ホライゾン?レコードから発売。リミックスは、エンジニアのアル?シュミットと細(xì)野が共同で行った。この米國盤は7月25日に日本でも発売された(日本ではオリコン?チャート最高20位)。日本盤との大きな違いとして、坂本のインスト曲「東風(fēng)」が「Yellow Magic (Tong Poo)」にタイトル変更され、吉田美奈子のヴォーカルが加えられている。1979年8月2日 - 8月4日には、ロサンゼルスのグリークシアターでチューブスの前座公演を行い(海外での初公演)、前座でありながらも観客が総立ちでアンコールを求めるなど、絶賛を浴びた。8月6日にはマダム?ウォンにて単獨(dú)ライヴも行い、この頃から徐々にその存在が注目され始める。
同年9月25日、2枚目のアルバム『ソリッド?ステイト?サヴァイヴァー』を発売(このころ、アメリカではリリース前にホライゾン?レーベルが倒産したため、オリジナルの形では発売されなかった)。オリコン?チャートの最高1位にランクインし、セールスはトータルで100萬枚を越え、その名を幅広い世代に浸透させることとなった。同アルバム収録の「テクノポリス」「ライディーン」は、YMOのパブリック?イメージとなる。10月には初のワールド?ツアー「トランス?アトランティック?ツアー」をイギリス、ロンドンのヴェニュー公演からスタート。ツアー中はテレビ、ラジオでも數(shù)多くのライヴ特番が組まれ、聴衆(zhòng)に対して媚を売る事なく黙々と楽器と向かい合う奇抜な演奏や真っ赤な人民服風(fēng)のコスチュームなど、その獨(dú)特なスタイルが注目を集めた。帰國する頃には日本でもYMOブームが起こっており、海外で火がついたYMOの人気が日本に「逆輸入」された形となった。海外でライブツアーをやるアーテイストの殆どが國內(nèi)でヒットを出し、人気者になってから行うが、YMOは國內(nèi)でヒットする前に行っている。これはスタッフが「YMOの音楽は國內(nèi)よりも海外の方が人気になる」と予見しての事だった。
こうしてYMOの日本國內(nèi)での人気は圧倒的なものとなり、その人気は流行に敏感な若者はおろか、當(dāng)時の小學(xué)生にまで広がっていった。若者がテクノカットをまね、竹の子族が「ライディーン」で踴るなど、YMOの影響は社會現(xiàn)象にまでなった。1980年3月からは初の國內(nèi)ツアー「テクノポリス2000-20」が行われる。4月には、小學(xué)館の雑誌「寫楽」の創(chuàng)刊イベント「寫楽祭」にシーナ&ザ?ロケッツやスネークマンショーらと共に出演。同年6月には、スネークマンショーのコントを織り交ぜて制作された4枚目のアルバム『増殖』を発表。これは當(dāng)初10萬枚の限定盤として売り出される予定であったが、20萬枚以上の予約が入ったため、通常盤としてリリースされた。同アルバムはオリコン?チャート初登場1位を記録。同年10月には第2回ワールド?ツアー「FROM TOKIO TO TOKYO」が、イギリス?オックスフォードのニュー?シアターから始まる。同ツアーは、8ヶ國、19公演で行われ、アメリカ、ロサンゼルスのザ?チャップリン?ステージ公演では、日本への衛(wèi)星中継も行われた。ツアー中にアメリカのテレビ番組「ソウル?トレイン」に、日本人ミュージシャンとして初めての出演を果たしている。ツアーは12月の日本武道館での4日連続公演で締めくくられた。
その後は、ワールドツアーは行われていない。これは「おもいっきりイイ!!テレビ」の「きょうは何の日?」で取り上げられた際のインタビューで細(xì)野が「レコーディングが大好きなんですよ。レコードが大好きだから、ライブに興味がなかったんですけど」と言い、高橋も「僕もレコーディングの方が全然いいですね」と言う。更に坂本は「3人共そうなんですけど、新しい物が好きなのね。だから新しい音楽を作るのは、やはりスタジオの中で作ってるんで、ステージ上って言うのは勿論新しい事も出來ますけど、やはり9割がたもう出來た物の繰り返しでしょ。だから、そんなに面白くないんですよ」と発言している。
YMOは「世界に通用する(した)ジャパニーズ?バンド」と位置づけられることが多いが、當(dāng)のメンバー達(dá)はむしろ、「世界に出かかってやめちゃったバンド」と考えているようである(※1993年「再生」時の高橋の発言より)。YMOと活動時期を同じくした人気バンド?ゴダイゴのミッキー吉野もまた、「YMOの歐米進(jìn)出と言っても実態(tài)は日本國內(nèi)向けのパブリシティ狙い。海外でのレコード売上ならうちのほうが上」と後に発言している。
【中期】『BGM』と『テクノデリック』
1981年はYMOにとって大きな転換期となる。3月に前衛(wèi)的ともいえるアルバム『BGM』を発表。當(dāng)時、開発されたばかりであったデジタルのMTR(マルチトラックレコーダー)を駆使したこのアルバムは非常に実験的なアルバムであり、それまでのポップ指向のスタイルから一転、“暗い”“重い”{[ヨーロッパ]]志向、ニューウェイヴ色の強(qiáng)いエレクトリックサウンドを展開した。歌詞もそれまでのクリス?モスデルによる散文詩から、メンバー自身による作詞(英訳詞はピーター?バラカンとの共同作業(yè))が行われるようになった。同アルバム収録の「CUE」はこれ以降のYMOの音楽性を示した曲であると坂本龍一は語っており、また「U?T」が後に英國の『ニュー?ミュージカル?エクスプレス』誌から「ハードコア?テクノの元祖」と稱されるなど、YMO自身のみならず世界にも影響を與えたアルバムである。
音楽とテクノロジーの新たな可能性を追求したこのアルバムは、それまでYMOに興味を持たなかった評論家などから非常に高い評価を得ている。しかしその一方で、いわゆる「ライディーン」的なサウンドを期待していたファンからは大顰蹙を買い、「失敗作」、「駄作」などと酷評され、セールス面では大きく落ち込んでしまう結(jié)果となった。このアルバムの発表に対し、メンバーは「何をやっても売れちゃう。こんな面白い狀況は二度と來ない。だったら遊んじゃおうと思った」(細(xì)野)、「期待をはぐらかす快感を味わいたかった」(坂本)、「ファンの切り捨てをしました」(高橋)と、それぞれ発言している。 因みに、細(xì)野はこのアルバムをYMOのベストと発言している。
そして同年11月には、『BGM』とはまた趣向の異なる実験的アルバム『テクノデリック』を発表。當(dāng)時としては最先端のサンプリング?マシーンを駆使し、金屬音や人間の聲などをサンプリングし、加工して使われたサウンドが、その後の世界中のミュージシャンに多大な影響を與えることになった。
同年リリースされた上記の2枚のアルバムの発表に続いて、2度目の國內(nèi)ツアー「ウィンター?ライヴ1981」が11月24日から仙臺、宮城県民會館よりスタート。全國11會場で行われる?!築GM』 『テクノデリック』からの楽曲を中心に演奏されたこのツアーでは、楽曲の再現(xiàn)性に問題があったため、YMOのステージとしては初めてMTR(マルチトラックレコーダー)が使用された。 演奏スタイルもそれまでのライヴとは、変化が見られる。高橋のドラムスタイルは、従來のドラムセットに加え、スタンディングでサンプリング?トリガーのLMD-649を叩くものが取り入れられた。楽曲によっては坂本がギターやドラムスを、高橋がキーボードを演奏するなど、YMOのライヴとしては希少ともいえる楽器の擔(dān)當(dāng)変更が見られた。また、細(xì)野がベースギターを演奏する比重が増えるなど、変化に富んでいた。ステージのサポートメンバーも松武秀樹一人だけで構(gòu)成されたライヴであった。 12月27日の新宿ツバキハウス公演を最後に(※この日の公演のみ、立花ハジメ、梅林茂もサポートメンバーとして參加、「中國女」も演奏された)、翌年はYMOとしての音楽活動は一旦休止?fàn)顟B(tài)となる。
グループ名を略して「イエローマジック」や「イエロー」といった呼ばれ方をされていたYMOであったが、この頃には「YMO」(ワイ?エム?オー)という記號化された略稱が一般に定著した[footnote 2]。散開後は、登録商標(biāo)の問題でこの「YMO」表記が出來なくなっており、「イエロー?マジック?オーケストラ」(Yellow Magic Orchestra)表記が主流である。
この時期、坂本は雑誌のインタビューで「ある意味で、僕が“細(xì)野晴臣”というミュージシャンを仮想の敵としている以上に、細(xì)野さんは僕を敵としてとらえて、自らとYMOをパワーアップしている」[5]と語っており、坂本と細(xì)野の間で対立じみた不協(xié)和音が発生していた。このころの坂本と細(xì)野の関係はかなり険悪な狀態(tài)で、坂本は細(xì)野とスタジオで顔を合わせると、腹いせに椅子を蹴飛ばしたり、また、互いに顔を合わせないように、わざとスタジオ入りの時間をずらしていたという。そんなこともあってか、2人の仲を取り持っていた高橋はとても神経をすり減らしていたそうである。
メンバー間では、1981年末でYMOの活動にピリオドを打つという考えがあったようである。しかしながら、(當(dāng)時所屬していたレコード會社だった)アルファレコードの意向によるビジネス面での要求から、解散はひとまず先延ばしにされた。
【後期】ソロ活動?再始動?そして「散開」へ
翌年、1982年はYMOとしての実質(zhì)的な音楽活動は行われなかった。各メンバーはソロ活動と同時に、歌謡界への曲提供に力を入れることとなる。細(xì)野ははっぴいえんど時代での盟友松本隆と共に松田聖子への楽曲提供を行い、また高橋と共に「¥EN」(YEN) レーベルを設(shè)立、ソロアルバム『フィルハーモニー』を発表する。
坂本は郷ひろみや前川清などの楽曲プロデュース、また、忌野清志郎と共にシングル「い?け?な?いルージュマジック」をリリース、そして、大島渚監(jiān)督の映畫『戦場のメリークリスマス』の撮影に俳優(yōu)(ヨノイ大尉役)として參加、また、自身としては初となる映畫音楽を手がけることになる。
高橋は「高橋幸宏TOUR1982」 を6月から行う。YMOとしては「ミュージックフェア」や「オレたちひょうきん族」に出演したり、當(dāng)時ブームだった漫才番組の「THE MANZAI」に「トリオ?ザ?テクノ」の名で出演し、“元YMOの”と前置きしつつ、漫才を披露している。(※細(xì)野は“林家三平”“大河內(nèi)傳次郎”、坂本は“忌野清志郎”“矢沢永吉”、高橋は“小野田寛郎”“草刈正雄”などのものまねを披露し、ラストは坂本が高橋、高橋が細(xì)野、細(xì)野が坂本のものまねをして終えた)
翌年、1983年3月、カネボウ化粧品のCMタイアップ曲となったシングル「君に、胸キュン?!工恰MOとしての音楽活動を再開。この曲以降、1981年の前衛(wèi)的なサウンド『BGM』 『テクノデリック』から一転、今度はポピュラー志向の日本語テクノ歌謡を展開した。この曲で“オリコン?チャート1位を狙う”と宣言するも、皮肉にも細(xì)野の作曲 / 編曲による松田聖子の「天國のキッス」に阻まれ、惜しくも2位に終わる(しかしYMOのシングルとしては最大の売上枚數(shù)を記録した)。引き続いて5月には、同曲を収録したアルバム『浮気なぼくら』を発表。またしても、それまでのイメージを劇的に変化させた歌謡曲アルバムであるが、楽曲そのものは、既存の歌謡曲の枠を超えた緻密なサウンドで構(gòu)成された先鋭的な作品であった。 しかしながら、このアルバムが「解散」を前提に制作されていたアルバムとは、この時點(diǎn)でメンバー以外はまだ誰も知らない。
また、同年7月には『浮気なぼくら』の楽曲のヴォーカル部分をシンセのメロディーに置き換えたリミックス盤『浮気なぼくら (インストゥルメンタル)』が発表され、このアルバムに収録された「以心電信」は、世界コミュニケーション年のテーマ曲として採用された。
この時期はメンバー3人の年齢が30代を過ぎていたこともあり、TV番組やイベント等に出演する際に3人は「おじさんアイドル」を演じ、曲の演奏にもアイドルさながらの振り付けが施されるなどの徹底ぶりであった。
當(dāng)時、高橋が擔(dān)當(dāng)の「オールナイトニッポン」に劇団スーパー?エキセントリック?シアター (S.E.T.) がレギュラー出演していたことから、かつての『増殖』のようにS.E.T.のコントを交えたアルバムを制作する案が高橋から持ちかけられ、解散記念としてアルバム『サーヴィス』が制作されることとなった(ラストアルバムである『サーヴィス』を含む後期の作品は、細(xì)野曰く“おまけ”であり、『浮気なぼくら』が実質(zhì)的な、ラストアルバムであると発言している)。
そして10月、雑誌「GORO」のインタビューで、初めて正式に「散開」(解散)が表明された。この「散開」宣言について、雑誌「Soundall」(12月號)のインタビューで、細(xì)野は「僕は散開に関して、別に何も思い入れがないの。ファンの人は“解散”なんて聞くとショッキングだろうから、その辺を考慮して“解散”という言葉は使わなかったし、発表する気もなかった」と、淡々とした発言をしている。
舊YMOとしての最後のライブツアー(散開ライブツアー)である「1983 YMOジャパン?ツアー」が11月23日から札幌、道立産業(yè)共進(jìn)會場よりスタート。全國6會場で行われる。ツアー最終日となる12月22日は日本武道館にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念、國連大學(xué)協(xié)力によるチャリティー?コンサート(観客は全て無料招待)だった。
アルバム『サーヴィス』はツアー中の12月14日に発売。また、12月12日-13日の日本武道館公演を収録した2枚組アルバム『アフター?サーヴィス』は、翌年の1984年2月21日に発売。同年4月5日、昨年の12月12日、13日の日本武道館の公演を素材として制作された映畫『A Y.M.O. FILM PROPAGANDA』のプロモーション試寫會を新宿シアターアプルにて行い、メンバー3人も姿を見せプロモーション活動を行った。舊YMOとしてはこれが最後の仕事となった。 同映畫は4月18日、渋谷公會堂にて上映。以後、全國109か所で公開された。
このあと、1993年4月1日まで、メンバー3人が揃ってメディアに姿を見せることはなかった。
【再生】
散開後も幾度となく再結(jié)成の噂がささやかれ、実際に周囲からのオファーもあったものの、それらは細(xì)野がすべて斷っていた。しかし、散開からおよそ10年を経た1993年2月、YMO「再生」(再結(jié)成)が発表され、4月1日にはメンバー3人揃っての記者會見において、新しいアルバムの発表と東京ドームでのコンサートの実施が公表された[footnote 3]。YMO再生は、新聞が社會面で、NHK及び民放がニュースでそれぞれ報道するなど、社會的にも大きく取り上げられ、便乗して過去のライブ映像や、過去のYMOの曲のリミックスアルバムなどが商品化された。
再生時の記者會見は、巨大なベッドに3人が仰向けに寢た狀態(tài)で行われ、3人がベッドから出たら3人は手錠で繋がれているというものだった??谏悉染t合司會は當(dāng)時のお笑い番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」のキャラクターであるオジンガーZが行った。ちなみにこの會場に、當(dāng)時放映されていた「進(jìn)め!電波少年」の松村邦洋と松本明子が蕓能レポーターとして紛れ込んでおり、「YMO再生! この機(jī)會にいろいろお願いしておきたい!」と題する企畫で「YMOのバッテンのマークを電波少年と呼ばせてはいただけないですか?」と交渉していた[footnote 4]。松村はこの時に「メリークリスマス、ミスターローレンス」とビートたけしの物まねをメンバーの前で行っており、「似ているね」と言われて嬉しかったと番組內(nèi)で語っている。
5月26日、アルバム『テクノドン』を発表。ミキシングには坂本がニューヨークで知り合ったマドンナ等との仕事で知られた日本人エンジニアGOH HOTODAが參加、後述の再生公演にも4人目のメンバーとして出演した。先行シングルはエルヴィス?プレスリーのカヴァー曲「ポケットが虹でいっぱい」。6月10、11日には、東京ドームにて公演が行われた。前座はジ?オーブが務(wù)めた。このライヴでは過去の曲も數(shù)曲、斬新なアレンジが施されて演奏されたものの、昔のヒットパレードに終始することは全くなく、あくまで『テクノドン』からの曲を中心に構(gòu)成された。8月25日、東京ドームでの公演を収録したCD『テクノドン?ライヴ』が発売。以降、解散などのアナウンスもないまま、YMOは再び活動を停止する。再生時の記者會見ではワールド?ツアーの実施や、もう1枚オリジナルアルバムを製作したいと発言していたが、結(jié)局YMOとしてそれらの活動が行われることはなかった(後年インタビューにて、「再生」はメンバー自身の本意ではなかったと3人とも口を揃えて語っている)。この間のCD?VHSについてはいずれもアルファレコードでなく東芝EMI(現(xiàn)ユニバーサル?ミュージック)からの発売であり、再発も他のアルバムと異なりEMI獨(dú)自での発売となっている。
しかし、細(xì)野?高橋?坂本の3人はソロ活動の傍ら、レコーディングやTV番組の企畫、イベント等において音楽的コラボレートを続けてきた。
【2000年代】
2001年1月23日、NHK-BS2で放送された細(xì)野晴臣デビュー30周年記念特番「細(xì)野晴臣 イエローマジックショー」にて3人が共演。3人が老人に扮して褞袍を著て演奏するというユーモラスな趣向で、同期なし、シンセサイザー、エレキベース、生ドラムのみの簡素な「ライディーン」を演奏した。この時の3人は「どてらYMO」と呼ばれる。
同年 4月25日、TBSによる地雷撲滅キャンペーン「地雷ZERO」の一環(huán)として、坂本を中心としたスペシャルグループ「N.M.L. (NO MORE LANDMINE)」によるチャリティソング「ZERO LANDMINE」が発売された。N.M.L.は坂本の呼びかけで集まった國內(nèi)外のミュージシャンで構(gòu)成され、デヴィッド?シルヴィアンやクラフトワークなど、YMO時代から坂本と親交のあるミュージシャンも多數(shù)參加した上、細(xì)野がベース、高橋がドラムで參加している。4月30日には、TBS50周年特別企畫番組「地雷ZERO 21世紀(jì)最初の祈り」が放送され、番組內(nèi)でN.M.L.による「ZERO LANDMINE」の生演奏に細(xì)野と高橋も參加した。
翌2002年、細(xì)野と高橋がエレクトロニカユニット「スケッチ?ショウ」を結(jié)成。アルバムには坂本も參加したほか、ライヴ「WILD SKETCH SHOW」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライヴでは新たなアレンジとなった「キュー」や「中國女」、細(xì)野と高橋のみで演奏した「ジャム」と、YMOのナンバーも數(shù)曲が演奏された(スケッチ?ショウ初披露の際にも細(xì)野?高橋?坂本の3人でメディアへの露出があった)。
スケッチ?ショウ以降、3人での音楽活動が活発化する。2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア?アートの國際フェスティバル「sonar festival 2004」がスペインのバルセロナにて開催され、3人はYMOではなく「ヒューマン?オーディオ?スポンジ (Human Audio Sponge=HAS)」(「スケッチ?ショウ + 坂本龍一」という位置づけ)を名乗り、1993年の再生ライヴ以來11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。この「sonar」の衛(wèi)星イベントとして、10月9日と10月10日、「sonarsound tokyo 2004」が恵比壽ガーデンプレイスにて開催され、再びHASとしてライヴを行った。いずれも演奏スタイルはYMOとは違い、それぞれのブースにマッキントッシュを配置したエレクトロニカのスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ?ショウのレパートリーが中心で、「ジャム」と「ライオット?イン?ラゴス」が演奏された以外は、YMO時代の曲は演奏されなかった。
1993年の「再生」以降、3人は長い間、もう一度YMOとして音楽活動をすることに対し、一貫して否定的な姿勢を取ってきた。HASとして活動する際も、それはあくまでYMOとは別のものであるとしてきた。
しかしながら、2007年2月3日、キリンラガービールのテレビCM企畫において、ついに「YMO」名義が復(fù)活する。CMには3人が揃って出演し、さらに、CMのために「ライディーン」を新たなアレンジで録音した「RYDEEN 79/07」が使用された。同曲はCM公開とともにインターネット配信が開始され、iTunes Storeをはじめとする數(shù)々の配信サイトにおいて、ダウンロード數(shù)1位を記録した(ネット配信時の名義は「YMO」の略稱ではなくカタカナ表記の「イエロー?マジック?オーケストラ」)。CM出演にともなって、3人一緒の寫真がデザイン(2種類)されているラガービール6缶パックが限定発売された。
3月21日にはベストアルバム『YMO GO HOME!』とライヴアルバム『ONE MORE YMO』がソニー?ミュージックダイレクトより再発売。同時に、オリジナルアルバム10作品とベストアルバム『UC YMO』の初回盤が復(fù)刻発売された。
その後5月19日、「Smile Together Project」の一環(huán)としてHAS名義でのライヴをパシフィコ橫浜國立大ホールにて行った。このライヴでは「RYDEEN 79/07」をはじめ、「以心電信」、「音楽」、「キュー」といったYMOのナンバーも演奏され、さらに映畫『EX MACHINA -エクスマキナ-』のテーマ曲となる3人の新曲「レスキュー」も披露された。このライヴは、チケット売り上げが全額「財(cái)団法人がんの子どもを守る會」の活動資金となるチャリティライヴであった。サポートメンバーは、高野寛、高田漣、権藤知彥。
一方でアップルジャパンのウェブサイトにおけるSpecial Interviewの中で、坂本が『歳を重ねて気持ちが緩くなり、自分たちでも(HASとYMOの)境界線がわからなくなってきている』ので、「HASと書いてYMOと読んでくれ」と発言した(ただし「そう読みたい人は読んじゃっていいよ」という言葉を後に付け加えている)。
そして7月7日、世界8カ國9都市で同日開催されたコンサート「ライブ?アース」には、ついに「Yellow Magic Orchestra」名義(略稱は使用されていない)で、サポートメンバーなしの3人のみで出演。會場は京都市の東寺の特設(shè)ステージで、出演5組のトリを飾る形となった[footnote 5]。8月22日には新曲「レスキュー」と「RYDEEN 79/07」を収録したシングルCDを、エイベックス內(nèi)の坂本が主宰するレーベルcommmonsから発売。名義は「レスキュー」が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「HASYMO(ハシモ)」、「RYDEEN 79/07」が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の「テクノドン?ライヴ」以來。
2008年6月15日、28年ぶりとなるロンドン公演がロイヤル?フェスティバル?ホールで行われた。また、同週の6月19日にはスペインのヒホン市の Laboral Ciudad de la Culturaでも公演した。今回のセットリストは前年行われた橫浜ライヴのものをほぼ踏襲しているが、スペインではロンドンで演奏された「SPORTSMEN」「FLY ME TO THE RIVER」が省略されたほか、各公演で若干曲順が異なっている。この公演で特筆すべきは世界初披露された新曲「The City of Light / Tokyo Town Pages」と、ダライ?ラマ14世のヴィジュアル?メッセージとともに演奏された坂本のソロ曲「TIBETAN DANCE」であった。
2009年。docomoのN-04Aにオリジナルコンテンツとして「good morning,good night」フルチューンと14種の効果音を提供した。この音源はここでしか確認(rèn)が出來ない。(HASYMO名義)
8月9日、東京?夢の島で開催された夏フェス「WORLD HAPPINESS 2009」に出演(なお、前年の同イベントにはHASYMO名義で出演している)。高橋はエレクトロニカスタイルを採らず全編ドラムを叩き、ビートルズのカバー「ハロー?グッドバイ」に始まって1980年以來の「千のナイフ」、テクノドンライブ以來の「ファイヤークラッカー」を含む全10曲を演奏した。當(dāng)日のライブサポートメンバーは小山田圭吾、高田漣、権藤知彥であった。
【2010年?現(xiàn)在】
2010年4月に発売された “音楽の事典”「commmons: schola vol.5 Yukihiro Takahashi & Haruomi Hosono Selections: Drums & Bass」において、前年録音したビートルズの「ハロー?グッバイ」と、スライ&ザ?ファミリー?ストーンの「Thank You For Talkin' To Me Africa」を収録。坂本によれば、本作において紹介すべき當(dāng)該の2曲が権利関係によって収録できなかったために自分たちで演奏したとのこと。レコーディングはクリックを使用しない生演奏で行われている。なお、後者のボーカルはクリスタル?ケイが擔(dān)當(dāng)した。これとリンクして、NHK教育テレビの番組「スコラ 坂本龍一音楽の學(xué)?!工巍弗丧楗啷?& ベース編」に三人で出演すると共に、小山田圭吾と権藤知彥と共に「千のナイフ」「ハロー?グッパイ」「Thank You For Talkin' To Me Africa(ボーカル無し)」の演奏を披露した。
2010年も引き続き夏フェス「WORLD HAPPINESS 2010」に參加。また秋からは江崎グリコ「ポッキー」のCMに出演、BGMには「ライディーン」が使用された。
2011年6月26日、アメリカ?ハリウッドの野外音楽堂「ハリウッド?ボウル」にて、1980年以來実に31年ぶりのアメリカ公演が、チボ?マットを伴って「BIG IN JAPAN」と題されて行われた。翌日には「Yellow Magic Orchestra“LIVE in California”」というタイトルでThe Warfieldで演奏を行った。
帰國後の7月31日には「フジロック?フェスティバル」に、8月7日には4回目になる「WORLD HAPPINESS 2011」に參加をし、1993年以來の新曲「Fire Bird」が発表された(HASYMO名義も含めると新曲としては2年ぶり)。また、8月5日には、初のスタジオライブをNHK放送センター101スタジオにて収録。そこでは「どてらYMO」ならぬ「ゆかた姿YMO」の出立ちも披露され、ライブの模様は11月4日にNHK総合にて放送された。
2012年2月15日、前年のThe Warfield公演が、DVD「Live in San Francisco 2011」として発売。
7月7?8日、坂本の呼びかけで始まった脫原発音楽イベント「NO NUKES 2012」に出演。7日はトリをクラフトワークに譲り、1曲目で同グループの「Radio Activity」をカヴァーする。また7月18日には、前年のスタジオライブがDVD「YMONHK」として発売され、8月1日には前年の「WORLD HAPPINESS」で初披露された「Fire Bird」が、デジタル?ダウンロード限定で販売された。
8月12日には5回目の「WORLD HAPPINESS 2012」出演で、ライブ初披露となる「開け心?磁世紀(jì)」、ライブでは29年ぶりの「TECHNOPOLIS」を演奏した。
同年10月11日には、「WORLD HAPPINESS 2012 After Party」と題するイベントが、東京都現(xiàn)代美術(shù)館レストランで開催?!竁ORLD HAPPINESS」における過去のYMO音源を、飯尾芳史がミックスし、高橋とともに鑑賞する內(nèi)容で、その席で「2013年のWORLD HAPPINESSにはYMOでは出演しない」旨が高橋よりコメントされた。
2013年3月9日、2回目の開催となる「NO NUKES 2013」に、坂本(大友良英、Sachiko M、ASA-CHANGとの連名)、細(xì)野、高橋(THE BEATNIKS)がそれぞれソロで出演。THE BEATNIKS終了後の幕間にはサプライズとして3人が「Radioactivity」「Rydeen」の2曲を演奏した。