グレープ

簡(jiǎn)介: 小簡(jiǎn)介?グレープは、さだまさし(ボーカル?ギター?ヴァイオリン)と吉田正美(現(xiàn)?吉田政美、ギター)による日本のフォークデュオ。1972年結(jié)成、1976年解散。解散から15周年の1991年に一時(shí)的に再結(jié)成した時(shí)には、解散から年月が経ってしまったことを示す灑落心から、「レーズン」の名 更多>

小簡(jiǎn)介

?グレープは、さだまさし(ボーカル?ギター?ヴァイオリン)と吉田正美(現(xiàn)?吉田政美、ギター)による日本のフォークデュオ。1972年結(jié)成、1976年解散。

解散から15周年の1991年に一時(shí)的に再結(jié)成した時(shí)には、解散から年月が経ってしまったことを示す灑落心から、「レーズン」の名を用いた。最近ではさだのコンサートに吉田政美がゲストとして招かれ、しばしば二人で歌を披露している。

大事件

結(jié)成からデビューまで

二人は高校時(shí)代からの音楽仲間?友人であった(學(xué)校は違った)。體調(diào)を崩して故郷の長(zhǎng)崎市へ帰っていたさだまさしの元へ、ひょっこり吉田が訪ねていったことから1972年11月3日に長(zhǎng)崎で結(jié)成。

當(dāng)時(shí)「二人組は売れない」と言われていたそうだが、さだまさしはサイモン&ガーファンクルに憧れていたためにあえて二人組にしたのだという。なお、「グレープ」という名前は、吉田が葡萄の絵を自分の印として譜面に書(shū)いていたことによる。吉田が「とりあえずこれにしよう」と言ったことからとりあえず「グレープ」になった、とさだまさしのエッセイ『本』に書(shū)かれている。

人気フォーク?デュオに

1973年、シングル『雪の朝』でデビュー。しかし全然売れなかった(今でもさだが自虐ネタにしている)。が、翌年にリリースされた2枚目のシングル『精霊流し』がロングヒット。発売から実に半年以上もかけてオリコン2位までいった。要因として、名古屋?東海ラジオ放送の蟹江篤子アナウンサーがラジオ番組で『精霊流し』をかけまくったのが全國(guó)に広まり、知れ渡ったことが挙げられる(さだ談)。さらに、ヴァイオリンを弾く、というさだの演奏スタイルも珍しかったために一躍人気デュオとなり、1974年の第16回日本レコード大賞作詩(shī)賞を受賞した。

3枚目の『追伸』では、極端にキーの高い同曲を伸びのある高音で歌い上げた。4枚目の『朝刊』は、それまでの暗いイメージの払拭を狙ってのリリースであった(なお、この時(shí)A面爭(zhēng)いでもめたのが後にクラフトがヒットさせる『さよならコンサート』である)。が、彼らが狙っていたほどのヒットはなかった。5枚目のシングルほおずきは、グレープライブ三年坂などでさだが自嘲気味に話しているとおり、あまり売れなかった。11月、グレープ名義ではラストシングルとなる『無(wú)縁坂』をリリース。これがヒットした。さらに、3枚目のLP『コミュニケーション』に収録された『縁切寺』、『フレディもしくは三教街 - ロシア租界にて - 』もヒットする(後にバンバンがシングルとしてカバーし、彼らもヒットさせた)。

今ではフォークのユニットとして記憶されているが、後にさだまさしが語(yǔ)るには「ロックをやりたかった」のだと言う。さだのヴァイオリンと吉田のジャズ?ギターを活かしたサウンドを目指していたらしい。確かに無(wú)國(guó)籍な印象のあるデビュー曲「雪の朝」や『精霊流し』のB面に収録されたフレンチ?ポップス風(fēng)の「哀しみの白い影」など、いわゆる「フォーク」の枠に収まらない楽曲も多い。また、セカンドアルバム『せせらぎ』収録の「ラウドネス」やライブアルバム『三年坂』に収録されている吉田の「バンコ」、さだの「第一印象」(いずれもインストゥルメンタル)といった楽曲は明らかにフォークソングではなく、彼らが本當(dāng)にやりたかった音楽の片鱗がうかがえる。

解散?

世間的には「精霊流し」のヒットにより、精霊流し=暗い=グレープというイメージがついてしまった。さらに3枚目の「追伸」もヒットし、B面の曲やLPの曲も含め、なおいっそう染み付いてしまう。それに対してさだは打開(kāi)策を考案した。それが4枚目のシングル「朝刊」である。しかし、上記の通り思うようにヒットせず、さらに追い討ちをかけるように「無(wú)縁坂」、「縁切寺」のような、暗いイメージの曲がヒットし、完全にグレープ自體も暗いというイメージが認(rèn)知されてしまった。これゆえに、二人が本來(lái)やりたかった音楽と乖離してしまった(さらにこの時(shí)、さだが體調(diào)を崩していた)ことから、人気絶頂の中1976年春に解散した。

なお、解散時(shí)期については、1976年3月とする資料と、4月に解散コンサートを長(zhǎng)崎県で行ったとする資料があり、さだまさしの公式WEBサイトでは「3月」となっていた(現(xiàn)在は修正済み)が、後にさだ企畫(huà)社長(zhǎng)の佐田繁理(さだの実弟)が當(dāng)時(shí)の所屬事務(wù)所であるバードコーポレーションの社長(zhǎng)から入手したグレープ時(shí)代のスケジュール表によると、1976年4月9日放送の文化放送『グレープのセイ!ヤング』最終回が、グレープとしての最後の仕事となっているとのことである。

ちなみにさだは解散に至った理由について「(僕の體のことだけなら「休止」でいいが、)精霊流し、無(wú)縁坂とヒットすればもう…行き著く先はお墓しかない。最後は墓守だ?!工工胜铯?、死、親の苦労、悲戀など、暗い歌を歌うグループというイメージで見(jiàn)られ、これからはそれしか作れなくなると感じたからだと語(yǔ)っている。

解散後の二人

さだまさしは解散の後、長(zhǎng)崎放送などへ就職活動(dòng)を行ったが上手くいかず、結(jié)局解散した年の秋にシングル『線香花火』でソロデビューした。その後、シンガーソングライターとして1970年代後半に『関白宣言』などのヒット作を連発?,F(xiàn)在に至るまで活躍を続け、近年では小説家としても活動(dòng)している。

吉田は「吉田正美と茶坊主」などの音楽活動(dòng)を経て1981年にレコードディレクター/プロデューサーに転身。名前も正美から政美へと改める。SMSレコードで制作部に勤務(wù)した後、バップに入社し所ジョージなどのアルバム制作を擔(dān)當(dāng)。プロデューサー職を経て、現(xiàn)在は管理部門(mén)に勤務(wù)している。

復(fù)活

解散から15周年目の1991年には一度「レーズン」の名で再結(jié)成し、アルバムをリリースしている。なお、レーズン名義になった理由は、もう新鮮なグレープ(葡萄)ではなく、年月を経てしなびた葡萄、すなわちレーズン(干し葡萄)になったというさだの灑落からである。

また、2002年には、東名阪で行われた「さだまさしデビュー30周年記念コンサート」で、グレープとしてステージに登場(chǎng)した(それ以前にも、さだのデビュー10周年記念コンサートや、1991年8月6日に行なわれたさだのチャリティーコンサート「夏?長(zhǎng)崎から'91」にグレープで出演している)。これ以降、ここ數(shù)年は以下のように毎年、何らかの形でグレープとしての活動(dòng)を行っている。

2003年4月 グレープ生誕の地、長(zhǎng)崎にて、「グレープ帰郷」コンサートを行う

2004年 さだのアルバム『戀文』のうちの2曲に吉田が參加

2005年9月 日本武道館で行われた、さだの3333回記念コンサートに吉田が出演

2006年 ファンクラブ向けアリーナコンサートおよび8月6日の『夏?長(zhǎng)崎から ファイナル』へ吉田が出演。8月5日放送のNHK番組『長(zhǎng)崎から突然生放送! 真夏の夜もさだまさし』では、4曲をグレープで生演奏。9月リリースのさだのアルバム『美しき日本の面影』に吉田が參加。

楽曲とヴォーカル

グレープ時(shí)代の楽曲は基本的にさだまさしが作詞?作曲しているが、數(shù)曲吉田の作品もある。なお、グレープ時(shí)代は作者がヴォーカルを務(wù)める、というシステムをとっており、吉田作品はヴォーカルも吉田である。ただし、レーズンとして再結(jié)成した際には、さだが作った楽曲をダブルヴォーカルで歌うという、グレープ時(shí)代にはなかった現(xiàn)象が起こった。ちなみに、さだ曰く二人ともボーカルを嫌がり、ジャンケンで決めることにしたところ、さだが負(fù)けたために、さだがボーカルに決まったという。

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