高橋竹山

簡介: 小檔案
高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年(明治43年)6月18日 - 1998年(平成10年)2月5日)は津軽三味線の名人。本名高橋定蔵。一地方の蕓であった津軽三味線を全國に広めた第一人者である。 演歌歌手北島三郎が歌った『風(fēng)雪ながれ旅』のモデル。
更多>

小檔案
高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年(明治43年)6月18日 - 1998年(平成10年)2月5日)は津軽三味線の名人。本名高橋定蔵。一地方の蕓であった津軽三味線を全國に広めた第一人者である。 演歌歌手北島三郎が歌った『風(fēng)雪ながれ旅』のモデル。
大事件
青森県東津軽郡中平內(nèi)村(現(xiàn)在の平內(nèi)町)小湊生まれ。
3歳の時に麻疹をこじらせて半失明する。その後近所のボサマ(盲目の門付蕓人)であった戸田重次郎から三味線と唄を習(xí)い、17歳頃から東北北部?北海道を門付けしたという。
1938年(昭和13年)イタコをしていたナヨと結(jié)婚。
太平洋戦爭の激化で三味線では生活が支えることが難しくなり、1944年(昭和19年)、鍼灸師とマッサージ師の資格取得のため県立八戸盲唖學(xué)校に入學(xué)。一時蕓の世界から身を引くが、1950年(昭和25年)から津軽民謡の神様とも呼ばれた成田雲(yún)竹の伴奏者として各地を興行。その際に雲(yún)竹より『竹山』の蕓名を受ける。 1954年(昭和29年)から雲(yún)竹とともにラジオ青森の民謡番組に出演した。
當(dāng)時の津軽民謡には三味線伴奏の付いたものが少なく、『津軽じょんから節(jié)』『津軽よされ節(jié)』『津軽小原節(jié)』のいわゆる『津軽三ツ物』に加えて、『津軽あいや節(jié)』ほどでしかなかった[要出典]。成田雲(yún)竹は高橋竹山に対して、伴奏のみならず他の津軽民謡に三味線伴奏を付けるよう依頼、以後雲(yún)竹の作詞作曲した『りんご節(jié)』など、雲(yún)竹?竹山のコンビで多くの津軽民謡を発掘?制作し発表した。
1963年(昭和38年)キングレコードより史上初の津軽三味線獨奏LPレコード『源流?高橋竹山の世界~津軽三味線』を発売。これによって竹山の名は津軽三味線奏者としての名聲を得る。
1964年(昭和39年)雲(yún)竹の引退?隠居により雲(yún)竹?竹山のコンビを解消。
1973年(昭和48年)小劇場渋谷ジァン?ジァンに初出演。その後も定期的に開催したライブで多くの若者の心を捉え津軽三味線ブームのさきがけとなった。
1975年(昭和50年)自伝『津軽三味線ひとり旅』を出版。
1977年(昭和52年)新藤兼人腳本?監(jiān)督により映畫『竹山ひとり旅』が製作され、モスクワ國際映畫祭に日本代表作品として出品される。
1986年(昭和61年)にアメリカ公演をし、これが世界に津軽三味線の名を知らしめるもととなった。ニューヨーク、ワシントンD.C.、ボルチモア、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ホノルルなど7都市で10回の演奏會。厳しい論評で知られるニューヨーク?タイムズは「まるで魂の探知器ででもあるかのように、聴衆(zhòng)の心の共鳴音を手繰り寄せてしまう。名匠と呼ばずして何であろう」と最高の賛辭を贈った。
1993年(平成5年)妻ナヨ死去。
1998年(平成10年)2月5日、喉頭がんにより平內(nèi)町立中央病院にて死去。享年87。戒名「風(fēng)雪院調(diào)絃竹山居士」。
晩年は衰えを自覚しながらも現(xiàn)役を退かなかったが、內(nèi)弟子として師事し最後まで演奏活動を共にした竹與に二代目高橋竹山の名を譲った。他にも弟子はいたが、竹與だけが教授活動を一切せず演奏活動だけで生活していたことを認(rèn)め、その行く先を心配してのことであった。